奪われるその9

ゆうくん
2005年01月03日
3,713
美奈子は蒼白になった。ただでさえ色白の肌から一斉に血の気が逃げていく。
――ひ、人を跳ねてしまった‥‥。ど、どうしよう‥‥。
ストレッチパンツにピッチリと包まれた両の膝が、熱病患者のようにブルブルと震える。
むろん交通事故は、加害者としても被害者としても初めての経験だ。思考が散り散りのカケラになって纏まらない。ちょっとしたパニック状態に陥ってしまった。
硬直して動かない指をハンドルからはぎ取り、車のドアを開ける。ガクガクする下半身を督促して足を外へ出し、シートから尻を離す。
クリーム色のブラウスに濃紺のストレッチパンツ姿の美奈子が、妙にぎくしゃくとした動きで車外に出る。
ヘッドライトの光芒の中に中年男と自転車が倒れていた。そこから少し離れたところに銀色の四角い箱のようなものが転がっている。カメラのケースのようだ。
「だ、大丈夫ですか?」
美奈子はドアのところから震えながら声をかける。本当は真っ先に被害者に駆け寄るべきなのだろうが、足が意志を裏切って前へ進まない。金縛りにあったようだ。
するとそれまでピクリとも動かなかった中年男が、むくむくと上半身を持ち上げた。
「いてて‥‥、おー痛え‥‥」
深刻な負傷はしていないらしい。口調が苦痛を訴えるというよりは、ぼやきに近い印象を与えた。
それを聞いた瞬間、美奈子の身体を縛りつけていた目に見えぬ鎖のようなものが、いきなり弾け飛び、身体が自由になった。慌てて男の元に駆けつける。
おそらく今までの硬直状態は、被害者が死ぬか大怪我を負ってしまったかもしれない、という恐怖がそうさせていたのだろう。男のぼやきの声を聞いて安堵したのだ。
「だ、大丈夫ですか?お怪我は?」
「大丈夫、ちょっと擦りむいただけですよ」
男――安西は左の肘にできた擦り傷を見せながら立ち上がった。
そういえば、安西が美奈子と直接言葉を交わすのはこれが初めてだった。二度にわたる調査で美奈子の過去を探り、先日は衝撃的な全裸の場面まで目撃していたので、彼女に対して妙な親近感を覚えていたのだが、現実はそうでもなかったのだ。
安西は、美奈子の強張った蒼白の表情を真正面から眺めた。心の中でほくそ笑む。
――うまくいった。かなり動揺しているな。
内心とは裏腹に、大げさに顔をしかめて安西が言う。
「‥‥擦り傷でも、ちょっと痛みますがね」
「も、申し訳ありませんでした。ちゃんと気をつけて運転していれば‥‥」
「いや、まあたいした怪我でもなかったんで、心配なさらんでください。‥‥
でも交通事故だから一応警察に通報しますか?」
美奈子の身体をギクンと衝撃が走る。
「け、警察?」
「そう、警察ですよ。交通事故なんだし、警察を呼んで原因を調べて貰いませんか。どちらに責任があるのかもはっきりするし」
「‥‥‥‥」
美奈子はうろたえた。これまでの人生で一度も警察との関わりを持ったことがなかったのだ。もちろん美奈子本人のみならず、家族にも知人にも警察の世話になった人間はいない。そのため、美奈子にとって警察とは、映画やドラマ、小説などに出てくる警察のイメージと大差のない、極めて現実感を欠いた存在でしかなかった。
その警察に自分が取り調べを受けなければならない。しかも加害者として。
実際には、交通事故といっても、相手はほとんど怪我らしい怪我もしていないし、警察の事故調査もほんの形ばかりのものになるはずだ。そう深刻に捉える必要もないわけだが、短大を出たばかりで主婦になってしまった美奈子は、人生経験も少なく、そういう知識がなかった。ネガティブな思考が次々と浮かんでは消えていく。

ロスの雄二には事故のことは知らせたくない。でも警察の取り調べを受けたら、雄二のもとへ連絡がいくだろう。雄二はどんなに驚き、嘆き、悲しむだろうか。
雄二だけでなく、他の家族にも知られてしまうに違いない‥‥。
東京の両親も驚くだろうな‥‥。
そこまで考えた美奈子ははっとする。義母の敏恵のことを思い出したのだ。
――いけない!このことがお義母さんの耳に入ったら、なんて言われるかわからない!ただでさえ憎まれてるのに!
「雄二はとんでもない女を嫁に選んだわよ!交通事故なんか起こして菱川家に泥を塗って!だから言ったでしょう、あの女は菱川家にふさわしくないって!」
勝ち誇ったように叫ぶ敏恵の姿が目に浮かぶ。
美奈子は敏恵に対し生理的嫌悪に近い感情を抱いていた。またそれ以上に恐れてもいた。初めて雄二に連れられて菱川家の本家に挨拶に行った日のことを思い出す。敏恵は初対面の美奈子を、あたかも犬や猫を見るような冷酷な目で見下し、頭ごなしに否定し、罵倒した。もの凄い迫力と凶器のような言葉で。その時の屈辱、恐怖。あれ以来、敏恵の存在は一種のトラウマになってしまっ
ている。
――お義母さんにだけは‥‥知られたくない‥‥。
美奈子の表情が苦痛でゆがむ。
安西は美奈子の心中を見透かすようにじっとその表情をうかがう。“警察”という単語が美奈子にもたらした影響力の大きさは、予想以上だった。もともと“警察”と“菱川家の名誉”の二つで美奈子を揺さぶり、示談に持って行くのが安西の計画だった。示談に持ち込み、次第に要求をエスカレートさせていく。そして‥‥。
「――奥さん、警察は気が進みませんかね?」
「は、はい。‥‥できれば、警察には‥‥」
「しかし、警察を通さないと責任の所在がはっきりしませんよ」
「責任‥‥ですか」
「そう。私の怪我はたいしたことないが、この通り、マウンテンバイクは壊れてしまったようだし」
安西は倒れたマウンテンバイクを起こした。後輪のスポークが二、三本折れ、リムがかすかに曲がっている。
「これの修理の費用を私が出すのか奥さんが出すのか、事故の責任がどちらにあるのかによって変わってくるんですよ」
「それくらいでしたらわたしの方で‥‥」
「それだけじゃないんですよ、これもですよ」
銀色に光るアルミのハードケースを拾い上げた安西は、美奈子の前に差し出した。アスファルトの上を転がったため、あちこちにこすれたような傷ができている。
「カメラと望遠レンズが入っています。調べてみないと判らないが、激しく地面に叩きつけられたようだから、ひょっとすると壊れているかもしれませんよ」
「そ、それもわたしが負担いたします。もし壊れていたら」
安西はけげんそうに美奈子の表情をのぞき込む。
「奥さん、どうして奥さんはそうまでして警察を嫌がるわけですか?」
「‥‥‥‥」
美奈子は口を噤んで答えない。不意に安西がはっとしたような表情になる。
「こんな時間に、こんなところを車で‥‥奥さんはひょっとして、この先の菱川さんのお宅の奥さんですか?」
「な、なぜ、それを‥‥」
「菱川家といったらこの近辺で知らない者はいませんよ。有名ですものね、お金持ちで。――そうかあ、奥さんは菱川家の方だったんですか。それじゃ警察沙汰を嫌うわけだ」

安西の演技力は本職の俳優並みだった。これは調査員としての経歴がものを言った。時にはでたらめの作り話をして、相手から証言を引き出さねばならないときもある。
「そうですか、奥さんは菱川家の、ね。なるほど、確かに菱川家の方が交通事故を起こしたなんて世間に知れたら、外聞が悪いですものね。家名にも傷がつくし」
「‥‥‥‥」
安西の言葉は美奈子の心を鋭くえぐった。美奈子が一番恐れるのはこの件が敏恵の耳に入ることだ。美奈子は唇の端を噛む。
そんな美奈子の様子をニヤニヤ笑いながら、安西はいかにも親切そうに言った。
「そういう事情でしたら、警察へ通報するのはやめてもかまいませんがね」
美奈子が途端にすがるような目になった。
「で、できればそうしていただけませんか‥‥」
「つまり、警察を通さないで示談にしよう、ということですか。私はかまいませんよ、奥さんの方で私の損害の補償をしてくれるなら」
「は、はい。お約束します」
安西は内心、ことが自分の思うがままに進行しているのを喜んだ。が、無論その表情を面に出すようなヘマはしない。二十年にわたる調査員としてのキャリアが、感情と表情の連動を断ち切り、お互い独立したものにしているのである。
「わかりました。示談にしましょう」
ぱっと美奈子の容貌が花が咲いたようになる。
「あ、ありがとうございます!助かります!」
「しかし、示談となると、どこかで話し合わなければなりませんがね。それに――」
安西は擦り傷のできた肘を美奈子の方に突き出す。
「これの手当もしたいんですが、私の家はここから遠くて」
「わ、わかりました。手当をします。うちへお越しください」
美奈子の誘導で安西はカメラケースを抱え、車の助手席に乗る。マウンテンバイクは軽自動車には積めないので、市道に置いたままにすることにした。
美奈子は運転席に乗り込んだ。自宅まで数百メートルしかないのに、律儀にシートベルトを装着して車をスタートさせる。
さすがに事故の後なので、慎重に慎重を期した安全運転である。全神経を車の運転に集中させている。
そのために美奈子は、安西が自分の胸元へチラリチラリと濁った視線を送っているのに気がつかなかった。
美奈子の乳房は、その谷間にシートベルトがきつく喰い込んで、肉の隆起の高さを強調している。車がカーブにさしかかるたびに、遠心力で美奈子の身体がかすかに左右に動き、それにあわせて双乳もフルフルと揺れている。いかにも柔らかそうで揉みごたえのありそうな乳房だ。
安西は期待で胸が高鳴る思いだった。