奪われるその10
ゆうくん
2005年01月04日
3,317
美奈子の家に着き、二人は車から降りた。玄関に入る。
安西を待たせておいて、美奈子は家中を走り回り照明を点灯していく。
待たされている間、安西はこっそり玄関の鍵を閉め、ドアチェーンまで嵌めてしまう。これでこの家の内部と外部は、完全に遮断されてしまった。
美奈子と安西は二人きりで密室の中にいるのだ。家の外は雑草ばかりが生い茂り、隣家の一軒さえない。
安西は密かにほくそ笑んだ。
――もし俺がヘマをやり、美奈子が隙をついて逃げ出したとしても、ここで足止めを喰う。外へ出るには、ドアチェーンを外し鍵を開けなければならない。
その間にはまた俺の手で取り押さえることができるだろう。万一、家から出られたとしても車のところで捕捉できるはずだ。多少騒がれても周りには家一軒ない‥‥。
――美奈子はもうすでに俺の手の内にある。
「‥‥お待たせしました。どうぞ、お上がりください」
美奈子の声が奥から聞こえてきた。
安西はニタリと下卑た笑みを浮かべ、靴を脱ぎ始めた。
「いてて‥‥、奥さん、沁みますよ。もう少し優しくやってくれませんか」
「す、すみません‥‥」
二人は客間で傷の手当てをしている。
客間は一階にあった。八畳程度の広さの洋間である。書斎を兼ねているのか、壁には本棚が設置され、窓際の小さな机の上にはノートパソコンが置かれている。
部屋の真ん中には、ガラス製の低いテーブルを間に置いて、二つのソファが向かいあわせに設置されていた。
そのうちの一つに安西がどっかと陣取り、怪我をした肘を前方に突き出している。その反対側のソファには、救急箱を脇に置いた美奈子がいて、腰を浮かせながら傷の治療をしている。
治療といっても大げさなものではない。もともと擦り傷程度の怪我なのだ。
せいぜいオキシドールで消毒し、大きめのバンドエイドでも貼っておけば事足りるのだが、加害者としての負い目と、今後の交渉相手の機嫌を損ねたくない一心で、美奈子は過剰なほどの治療を施していく。消毒し、化膿止めの軟膏を塗り、ガーゼを被せてテープで留め、包帯をぐるぐると必要以上の長さで巻いていく。
肘の治療が一段落すると、安西がさらに片方の足首の痛みも訴えたため、調べてみると、同じような擦り傷がくるぶしの辺りにできている。美奈子はその傷も同様の治療を施し、再び白い包帯をぐるぐる巻きつけた。
この過剰な手当が――特に包帯を必要以上に使用したことが、後に美奈子を窮地に追い遣ることになるのだが、むろん今の彼女はそれを知るよしもなかった。
「いやあ、丁寧な治療、ありがとうございました。お蔭様ですぐ治りそうです」
「いえ、こちらが悪いことですから‥‥」
美奈子は救急箱に薬や道具類を仕舞いながら答え、台所に行ってコーヒーを二人分運んできた。ガラスのテーブルに置いて、安西の向かい側に腰を下ろす。
不安げな表情で切り出した。
「で、本当に示談にしていただけるんでしょうか‥‥」
安西はにやりと笑った。口元がVの字に尖り、キツネのような顔がいっそう鋭角的になる。
「まあまあ、奥さん、慌てんでくださいよ。私たちはまだお互い名乗り合ってもいないんだから。――私はこういう者です」
安西は名刺を差し出す。受け取って目を落とすと“フォトグラファー印東杉男”とある。住所はここから四、五キロ離れたところだった。
もちろんこの名刺には、一文字たりとも事実は盛り込まれていない。安西が仕事でよく用いる偽名刺だ。
「いんとうさん‥‥。フォト‥グラファー‥‥ですか」
「フォトグラファーとはカメラマンのことですよ。私は風景写真家なんです」
「風景の‥‥。じゃあ山とか川とか‥‥」
「そう、豊かな自然をカメラに収めるのが仕事でね。だからこの辺りには以前から時折来てたんですよ。ほとんど家もないし、自然が豊富ですし。車では入っていけないところにもよく足を運ぶんで、たいてい移動には自転車を使ってんですが、そこを奥さんに追突されたってわけです」
「申し訳ありませんでした」
「いえ、いえ。‥‥で、奥さんは――」
「わたしは菱川美奈子と申します」
「ご主人は菱川家の御本家のご子息の雄二さんですね」
美奈子は目を瞠る。
「ど、どうしてそれを‥‥」
「なに、さっき玄関の表札を見たんですよ。菱川家の方はこの近辺では有名ですからね。ことに御本家の方々はね。例えば、雄二さんのお母さんはよく噂で聞きます。御大家の奥様らしく気位の高いお人だそうで」
「‥‥‥‥」
安西はニヤッと笑みを浮かべる。
「あの奥様には事故のことを知られたくないんじゃないですか?」
「いえ、その、‥‥示談にしていただけるんでしょうか?」
「もちろん。ただ、商売道具のカメラがね――」
安西は床に置いてあったカメラのハードケースを取り上げ、膝の上に乗せた。
「だいぶひどく道路の上を転がったみたいだから壊れているかもしれんのですよ。その場合は奥さんが弁償してくれるということでいいんですね?」
「はい、わたしの方でなんとかします」
安西は美奈子の返事を聞くと満足そうにうなずいて、ケースの蓋に手をかけた。衝撃で歪んだのか、開けるにはけっこうな力を込めなければならなかった。
蓋が開くと、内部に、複数のカメラやズームレンズが収納されているのが見えた。安西は一つ一つ取り出し、故障していないか点検しつつ、ガラステーブルの上に置いていく。カメラに疎い美奈子は、息を詰めて、ただ眺めるばかりである。
安西が取り上げたのは、いかにもプロの写真家が持ちそうな、大きな一眼レフのカメラである。普通のカメラよりも縦幅があり、正面から見ると正方形に近い形をしている。その中心部に丸いレンズが突き出ていた。“NIKON”のエンブレムが光る。
「これはニコンのD1といいます。デジタルカメラですよ。故障してますね。
電源も入らないし、シャッターが降りない」
安西は美奈子にカメラを渡した。おそるおそるシャッターに指をかけて押してみる。確かに作動しなかった。
「カメラ本体の他に、取りつけてあるそのレンズも壊れてますよ」
安西はD1に装着したレンズを指差した。これは美奈子にもすぐ壊れていることが判った。レンズにヒビが入っているのだ。
「D1は本体とレンズが別売になってます。本体とレンズ、両方弁償していただくことになりますが、いいですかね?」
「わかりました。弁償します。おいくらになりますか?」
美奈子は次第に不安になる。いかにもプロの使いそうな、重厚な印象のカメラだ。二万や三万では買えそうにない。
――いくらぐらいかな?十万円超えたら困っちゃうな。払うのがたいへんだ‥‥。
安西は美奈子の不安げな眉を長めながら、気の毒そうな、申し訳のなさそうな表情を作って見せた。
「本体とレンズ合わせて、だいたい九十万円近くになりますね」
「‥‥きゅ、きゅうじゅう?」
美奈子は絶句した。予想と桁が一つ違っていた。顔からさーっと血の気が引いていく。
「D1はプロ用のデジタルカメラで、極めて高性能なんですよ。その分、値段も高くて本体のみで六十五万円です。レンズの方も二十三万ほどしますよ」
「そ、そんなに‥‥」
「疑うなら証拠はありますよ、奥さん」
安西はまた口元で微笑む。部屋の隅の机に置かれたノートパソコンを指差した。
「あのパソコンはネットにつないでますか?」
「は、はい」
無線LANなので、家のどこでもインターネットを利用できるのだ。
「じゃあ、ネットで検索してみましょう。奥さん、パソコンの電源を入れてください」
安西は腰を上げた。ショックで半分呆然となった美奈子も、よろめくように立ち上がって机に向かう。
美奈子はブラウザを立ち上げると、安西の指示するアドレスを入力してニコンのホームページを開く。製品案内をクリックし、D1の紹介ページを開いた。
実際に安西の言った通りの値段でこれらは販売されていた。
美奈子は胸がドキドキした。とても払えない金額だからである。美奈子自身気がつかなかったが、マウスを操る腕がかすかに震えていた。
それを見逃す安西ではない。揺さぶりが功を奏していることを密かに喜んだ。
実はこれは美奈子を嵌める策略だったのだ。
この高級デジタルカメラは、事故で壊れたのではなく、もともと故障していたのである。それをケースの中に入れておいただけなのだ。
安西は写真が趣味である。数は多くないが、同好の士も何人かいる。そのうちの一人から壊れたD1を借りてきた。なんでも三脚から外すとき、誤って地面に落としてしまったのだそうだ。
それをあたかも事故で故障したように装ったわけだ。
それだけではない。値段の方も、ある意味で欺瞞であった。確かにD1の販売価格は六十万円以上である。しかし、それは今から五年も前のことだ。その後、技術が進歩して、もっと高性能かつ格安のプロ用デジタルカメラが販売されている。九十万円など払う必要はないのだ。
が、カメラに明るくない美奈子に、そういう安西の計略がどうして見抜けようか。
安西を待たせておいて、美奈子は家中を走り回り照明を点灯していく。
待たされている間、安西はこっそり玄関の鍵を閉め、ドアチェーンまで嵌めてしまう。これでこの家の内部と外部は、完全に遮断されてしまった。
美奈子と安西は二人きりで密室の中にいるのだ。家の外は雑草ばかりが生い茂り、隣家の一軒さえない。
安西は密かにほくそ笑んだ。
――もし俺がヘマをやり、美奈子が隙をついて逃げ出したとしても、ここで足止めを喰う。外へ出るには、ドアチェーンを外し鍵を開けなければならない。
その間にはまた俺の手で取り押さえることができるだろう。万一、家から出られたとしても車のところで捕捉できるはずだ。多少騒がれても周りには家一軒ない‥‥。
――美奈子はもうすでに俺の手の内にある。
「‥‥お待たせしました。どうぞ、お上がりください」
美奈子の声が奥から聞こえてきた。
安西はニタリと下卑た笑みを浮かべ、靴を脱ぎ始めた。
「いてて‥‥、奥さん、沁みますよ。もう少し優しくやってくれませんか」
「す、すみません‥‥」
二人は客間で傷の手当てをしている。
客間は一階にあった。八畳程度の広さの洋間である。書斎を兼ねているのか、壁には本棚が設置され、窓際の小さな机の上にはノートパソコンが置かれている。
部屋の真ん中には、ガラス製の低いテーブルを間に置いて、二つのソファが向かいあわせに設置されていた。
そのうちの一つに安西がどっかと陣取り、怪我をした肘を前方に突き出している。その反対側のソファには、救急箱を脇に置いた美奈子がいて、腰を浮かせながら傷の治療をしている。
治療といっても大げさなものではない。もともと擦り傷程度の怪我なのだ。
せいぜいオキシドールで消毒し、大きめのバンドエイドでも貼っておけば事足りるのだが、加害者としての負い目と、今後の交渉相手の機嫌を損ねたくない一心で、美奈子は過剰なほどの治療を施していく。消毒し、化膿止めの軟膏を塗り、ガーゼを被せてテープで留め、包帯をぐるぐると必要以上の長さで巻いていく。
肘の治療が一段落すると、安西がさらに片方の足首の痛みも訴えたため、調べてみると、同じような擦り傷がくるぶしの辺りにできている。美奈子はその傷も同様の治療を施し、再び白い包帯をぐるぐる巻きつけた。
この過剰な手当が――特に包帯を必要以上に使用したことが、後に美奈子を窮地に追い遣ることになるのだが、むろん今の彼女はそれを知るよしもなかった。
「いやあ、丁寧な治療、ありがとうございました。お蔭様ですぐ治りそうです」
「いえ、こちらが悪いことですから‥‥」
美奈子は救急箱に薬や道具類を仕舞いながら答え、台所に行ってコーヒーを二人分運んできた。ガラスのテーブルに置いて、安西の向かい側に腰を下ろす。
不安げな表情で切り出した。
「で、本当に示談にしていただけるんでしょうか‥‥」
安西はにやりと笑った。口元がVの字に尖り、キツネのような顔がいっそう鋭角的になる。
「まあまあ、奥さん、慌てんでくださいよ。私たちはまだお互い名乗り合ってもいないんだから。――私はこういう者です」
安西は名刺を差し出す。受け取って目を落とすと“フォトグラファー印東杉男”とある。住所はここから四、五キロ離れたところだった。
もちろんこの名刺には、一文字たりとも事実は盛り込まれていない。安西が仕事でよく用いる偽名刺だ。
「いんとうさん‥‥。フォト‥グラファー‥‥ですか」
「フォトグラファーとはカメラマンのことですよ。私は風景写真家なんです」
「風景の‥‥。じゃあ山とか川とか‥‥」
「そう、豊かな自然をカメラに収めるのが仕事でね。だからこの辺りには以前から時折来てたんですよ。ほとんど家もないし、自然が豊富ですし。車では入っていけないところにもよく足を運ぶんで、たいてい移動には自転車を使ってんですが、そこを奥さんに追突されたってわけです」
「申し訳ありませんでした」
「いえ、いえ。‥‥で、奥さんは――」
「わたしは菱川美奈子と申します」
「ご主人は菱川家の御本家のご子息の雄二さんですね」
美奈子は目を瞠る。
「ど、どうしてそれを‥‥」
「なに、さっき玄関の表札を見たんですよ。菱川家の方はこの近辺では有名ですからね。ことに御本家の方々はね。例えば、雄二さんのお母さんはよく噂で聞きます。御大家の奥様らしく気位の高いお人だそうで」
「‥‥‥‥」
安西はニヤッと笑みを浮かべる。
「あの奥様には事故のことを知られたくないんじゃないですか?」
「いえ、その、‥‥示談にしていただけるんでしょうか?」
「もちろん。ただ、商売道具のカメラがね――」
安西は床に置いてあったカメラのハードケースを取り上げ、膝の上に乗せた。
「だいぶひどく道路の上を転がったみたいだから壊れているかもしれんのですよ。その場合は奥さんが弁償してくれるということでいいんですね?」
「はい、わたしの方でなんとかします」
安西は美奈子の返事を聞くと満足そうにうなずいて、ケースの蓋に手をかけた。衝撃で歪んだのか、開けるにはけっこうな力を込めなければならなかった。
蓋が開くと、内部に、複数のカメラやズームレンズが収納されているのが見えた。安西は一つ一つ取り出し、故障していないか点検しつつ、ガラステーブルの上に置いていく。カメラに疎い美奈子は、息を詰めて、ただ眺めるばかりである。
安西が取り上げたのは、いかにもプロの写真家が持ちそうな、大きな一眼レフのカメラである。普通のカメラよりも縦幅があり、正面から見ると正方形に近い形をしている。その中心部に丸いレンズが突き出ていた。“NIKON”のエンブレムが光る。
「これはニコンのD1といいます。デジタルカメラですよ。故障してますね。
電源も入らないし、シャッターが降りない」
安西は美奈子にカメラを渡した。おそるおそるシャッターに指をかけて押してみる。確かに作動しなかった。
「カメラ本体の他に、取りつけてあるそのレンズも壊れてますよ」
安西はD1に装着したレンズを指差した。これは美奈子にもすぐ壊れていることが判った。レンズにヒビが入っているのだ。
「D1は本体とレンズが別売になってます。本体とレンズ、両方弁償していただくことになりますが、いいですかね?」
「わかりました。弁償します。おいくらになりますか?」
美奈子は次第に不安になる。いかにもプロの使いそうな、重厚な印象のカメラだ。二万や三万では買えそうにない。
――いくらぐらいかな?十万円超えたら困っちゃうな。払うのがたいへんだ‥‥。
安西は美奈子の不安げな眉を長めながら、気の毒そうな、申し訳のなさそうな表情を作って見せた。
「本体とレンズ合わせて、だいたい九十万円近くになりますね」
「‥‥きゅ、きゅうじゅう?」
美奈子は絶句した。予想と桁が一つ違っていた。顔からさーっと血の気が引いていく。
「D1はプロ用のデジタルカメラで、極めて高性能なんですよ。その分、値段も高くて本体のみで六十五万円です。レンズの方も二十三万ほどしますよ」
「そ、そんなに‥‥」
「疑うなら証拠はありますよ、奥さん」
安西はまた口元で微笑む。部屋の隅の机に置かれたノートパソコンを指差した。
「あのパソコンはネットにつないでますか?」
「は、はい」
無線LANなので、家のどこでもインターネットを利用できるのだ。
「じゃあ、ネットで検索してみましょう。奥さん、パソコンの電源を入れてください」
安西は腰を上げた。ショックで半分呆然となった美奈子も、よろめくように立ち上がって机に向かう。
美奈子はブラウザを立ち上げると、安西の指示するアドレスを入力してニコンのホームページを開く。製品案内をクリックし、D1の紹介ページを開いた。
実際に安西の言った通りの値段でこれらは販売されていた。
美奈子は胸がドキドキした。とても払えない金額だからである。美奈子自身気がつかなかったが、マウスを操る腕がかすかに震えていた。
それを見逃す安西ではない。揺さぶりが功を奏していることを密かに喜んだ。
実はこれは美奈子を嵌める策略だったのだ。
この高級デジタルカメラは、事故で壊れたのではなく、もともと故障していたのである。それをケースの中に入れておいただけなのだ。
安西は写真が趣味である。数は多くないが、同好の士も何人かいる。そのうちの一人から壊れたD1を借りてきた。なんでも三脚から外すとき、誤って地面に落としてしまったのだそうだ。
それをあたかも事故で故障したように装ったわけだ。
それだけではない。値段の方も、ある意味で欺瞞であった。確かにD1の販売価格は六十万円以上である。しかし、それは今から五年も前のことだ。その後、技術が進歩して、もっと高性能かつ格安のプロ用デジタルカメラが販売されている。九十万円など払う必要はないのだ。
が、カメラに明るくない美奈子に、そういう安西の計略がどうして見抜けようか。